01 守谷から東京まで何分?–明治編–

守谷に通運丸きたる

明治33年、通運丸は、東京(両国橋)から水海道までの航路を新設しました。
これにより守谷に通運丸が来るようになったのです。
東京(両国橋)—水海道の航路

これが通運丸だ!
“通運丸の構造はその中央が機関部で大きな蒸気エンジンが据えつけてあったが、船は発動機船とちがってあまり振動もなく、乗り心地はきわめてよかった。

客室は上等と並等にわかれ、上等は舳(船の前)の方にあり、並等は艫(船の後)の方にあった。並等と機関部の間に狭い部屋があったが、そこには会計さんという船長に次ぐ地位の船員がいて、船内の事務や船客に対するサービスを仕事としていた。
またその部屋には駄菓子屋やラムネなどをならべ、客の求めによっては弁当も調製した。弁当といっても汽車弁のような折詰ではなく、むかし一膳めし屋でよく使った木製の仕切りのある箱に飯を盛り、おかずは主に佃煮類を添えたものであった。”
通運丸の性能
型番 | 長(尺) | 重(トン) | 馬力 | 時速(里) |
---|---|---|---|---|
第1 | 66 | 19 | 13 | 3.0 |
第2 | 69 | 20 | 13 | 3.0 |
第3 | 74 | 19 | 18 | 3.0 |
第4 | 64 | 20 | 13 | 3.0 |
第5 | 57 | 13 | 16 | 3.0 |
第6 | 66 | 18 | 16 | 3.0 |
第7 | 74 | 18 | 16 | 3.0 |
第8 | 76 | 28 | 13 | 3.5 |
第9 | 78 | 27 | 19 | 3.5 |
第10 | 50 | 13 | 13 | 3.0 |
第11 | 65 | 6 | 13 | 4.0 |
第12 | 62 | 21 | 22 | 3.5 |
第14 | 63 | 15 | 16 | 3.0 |
第16 | 43 | 7 | 4 | 3.0 |
第17 | 63 | 12 | 16 | 3.0 |
第18 | 63 | 14 | 16 | 3.0 |
第19 | 47 | 6 | 6 | 3.0 |
第20 | 46 | 7 | 6 | 4.8 |
第21 | 46 | 6 | 5.5 | 4.0 |
第22 | 51 | 5 | 6 | 5.0 |
第23 | 51 | 9 | 6.2 | 6.0 |
第24 | 51 | 9 | 6.2 | 6.0 |
第25 | 67 | 22 | 15 | 5.0 |
第26 | 68 | 24 | 15 | 6.0 |
通運丸を体験した、2人の少年
“高梨少年—船室にはうす暗いカンテラ(灯火具の一種)がともされ、乗客は着たままのごろ寝である。混み合ったときは他の客の頭や足が自分のからだに触れることもあった。
東京へ帰るときは正午に水海道を出航した汽船が一時ごろ大木へ着くのでそこから乗り込むとその日の夕方には東京に着く。
上りは下りの約半分の時間しかかからない。下りは、江戸川も鬼怒川も流れにさかのぼるので船足が遅く、上りは、いずれも流れに従うので船足が早いのである。
下りは夜間であるが、上りは昼の間であるから、その間のんびりした船旅が楽しめた。”
“新島少年—鬼怒川で水浴びをしていると、大木出身の船員に汽船へ引き上げられ、そのまま水海道まで乗せてもらい、川徳でうどんをご馳走になり、また、大木まで上りの船で送ってもらった。”
守谷の中心は、野木崎だった?
“旧守谷、大井沢、大野、高野はいずれも水運の発達した町村であったが、なかでも利根川と鬼怒川の合流点に位置し、高瀬船のほかに蒸気船『通運丸』が寄航する野木崎の下川岸は、県下有数の活況を呈していた河岸であった。
旅客を乗せた人力車や馬車は次々に立場(人力車・馬車の発着所)を出入りし、米、しょう油、薪などの船の積荷を運ぶ荷馬車、荷車は頻繁に通りを行き交い、船頭や船客を相手にした菅乃屋、宮乃屋、中乃屋という水茶屋(割烹旅館)も繁栄していた。”

野木崎河岸の跡地


3人の古老が語る、
かつての野木崎河岸
“古老A—交通機関では守谷なんか、野木崎が一番良いでしょ。水海道からあれが一番開けでんだから。ここらで(この辺で)道路に砂利入ったの一番早いんだから。そういうふうにオラ聞いでるよ。
その当時の交通機関というのは馬車だから。そんで江戸川上って東京へ行った訳だから、一時あすこ(下川岸)は栄えたんだね。”
“古老B—昔、料理屋なんてやってね。この家もミヤノヤ(屋号)っていう料理屋だった。その先に土手の方に寄った所に、スガノヤ(屋号)っていう料理屋があったの。
お客さんは、それはね、ここ3軒のお茶屋、10軒の所で、3軒がお茶屋でしょ。んだから、もう、水海道辺りの商人が東京へ仕入れに行くお金がこのお茶屋ではたかれた(使ってしまって)っていうほど。使わせられちゃって。泊りぶって(宿泊して)。向こうから来て、ここで、一泊する。ここから、通運丸っていう蒸気船に乗って、運河を通って、江戸川にでて、東京に入ったの。
これしかねえ(この方法だけしかない)わけだ、東京に行くのに。鉄道ができてからは、すっかり変わっちゃって、ここはもう寂しくなっちゃったのね。
90年前は、とっても賑やかだったの。毎日、朝からドンチャンドンチャンね。それこそ、三味線・太鼓の音でね。お客がもう、はあ、ね。んだから、もう、東京へ仕入れに行くお客のこと待って、もう捕まえて、えへへへ。ここでね。お金を使わせらっちゃうね。”
“古老C—下川岸がにぎやかだった頃。後藤屋、それからほれ、飲み屋いっぱいあっぺよ、スガノヤ、オカノヤ、タムラヤ、タジマヤ。
そんで、俺子どもの頃はな、正月になると、トンツク、トンツク、トンツクトンツクってほれ、料理屋でな、一杯やりながら、茶屋女らとトンツクやって騒いだの聞こえるんだから。下河岸が盛んな頃だよ。ほんで、常陸からこっちの方の米、味噌、醤油、どんどんどん、あすく(あそこ)から東京へ出したの。お客さんは、運びや(運送屋)。それから、地元の好きな大将らは、あすくへ行って夜、正月になると新年会っていう訳じゃないけれど、トンツクトンツク。忘年会も新年会もあすくでトンツクトンツク。スガノヤ、ゴトウヤだの、ミヤノヤだの。タテバもあったよ。
ガラガラガラガラ。あの馬車だからな。トロッコなんてないかんね。タテバ。そういうような。馬をつないでおくところ。そんで、一杯飲んで、馬ひっかけたっけれ、また一杯飲んで。いや、これはあすこはその当時、銀座通りだから。夜通しだよ。うん、ガラガラガラガラ、砂利道だから、んだから聞こえるの。
そして、そのうち今度、運河が出来たでしょ。ほんで(だから)、あすこから運河を通って、江戸川に入って、そんで、あれ持っていったけかな。こいつはね、利根汽船航路っていうやつで、野木崎河岸通ったんだよ。
通運丸のがあって、通運丸っていうのは、ここから水海道まで行ったんだから、ずっと。ほんで、その頃は、利根川も鬼怒川も深くて、ずっと水海道まで行った。水海道じゃなくて、宗道河岸なんて、その先まで行っていたんだ。そんで、昔はこっち側に船が着いたんだ。今は、砂ばかりでてだめだけど。こっち側深くて。
関東鉄道できてからは、まずくなったんだよな。関東鉄道できてからは、みんな、荷物だの向こう行っちゃうから。”
『絶世の美女がいた?』お夏
♪とらやお夏は 錨か綱か 上り下りの船とめる♪
“野木崎河岸の『とらや』にはお夏という別嬪の娘がいた。上り下りの船頭たちは『とら屋の娘、お夏』と一夜の歓をつくすため、船足の予定を変更してまで野木崎河岸に停泊し、大いに浩然の気を養ったという。それで唄のような『とらやお夏は 錨か綱か 上り下りの船とめる』という歌詞が生まれたのである。
こうして歌になったほどの美人『とら屋の娘、お夏』は、その後に利根川向う東深井村へ嫁に行き、明治41年6月、61歳で世を去ったという。”
守谷から東京まで何分?


あとがき
守谷の歴史を調べると、交通の歴史はあらゆる歴史でした。その時代にどんな人がいて、何を考え何を為そうとしたのか? その結果が『みち』でした。
古今東西の先人たちが守谷の歴史を調べ上げ本を遺してくれたおかげで調べ進めることができました。そしてそれらの郷土の本を保管してきた守谷の図書館があるからこそ、今こうして時空を超えて読むことができる。このことに何度も不思議な気分になりました。
自分も先人のように、自分が調べた歴史を自分なりに表現して残したいと思い至り、このHPをつくりました。自分なりの表現として、先人からの引用を1つの布切と捉え、それらを集め繋ぎ合わせることで1枚の布にしたつもりです。
先人の引用はすべて直接引用を心掛けましたが、ごく一部、読みやすくする為に修正しています。できるだけ引用元のリンクを貼りましたので御確認頂ければ幸いです。
通運丸の略年表
明治10年 | 『通運丸』就航 |
明治23年 | 『利根運河』開通 |
明治33年 | 東京—水海道を新設 |
大正2年 | 常総鉄道『守谷駅』開駅 |