もりやから東京まで何分?守谷の交通の歴史明治編

守谷に通運丸つううんまるきたる

明治33年、蒸気船「通運丸つううんまる」は、東京から水海道までの航路を新たに設けました。

これにより守谷は、その中継地点として、大きく栄えるようになったのです。

通運丸の航路
東京(両国)から水海道までの航路

カフェや旅館で大賑わい?

“旧守谷、大井沢、大野、高野はいずれも水運の発達した町村であったが、なかでも利根川と鬼怒川の合流点に位置し、高瀬船のほかに蒸気船『通運丸』が寄航きこうする野木崎の下川岸しもかわぎしは、県下有数の活況かっきょうていしていた河岸かしであった。

旅客を乗せた人力車や馬車は次々に立場たてば(人力車・馬車の発着所)を出入りし、米、しょう油、薪などの船の積荷を運ぶ荷馬車、荷車は頻繁に通りを行き交い、船頭や船客を相手にした菅乃屋すがのや宮乃屋みやのや中乃屋なかのやという水茶屋(割烹かっぽう旅館)も繁栄していた。”

野木崎河岸のイメージ
かつて栄えていた頃の野木崎の下川岸しもかわぎし

野木崎の下川岸しもかわぎしのいま

平成2年7月25日撮影|野木崎河岸の跡地
平成2年7月25日
令和5年7月25日撮影|野木崎河岸の跡地
令和5年7月25日

古老は語る Part1

“交通機関では守谷なんか、野木崎が一番良いでしょ。水海道からあれが一番開けでんだから。ここらで(この辺で)道路に砂利入ったの一番早いんだから。そういうふうにオラ聞いでるよ。

その当時の交通機関というのは馬車だから。そんで江戸川上って東京へ行った訳だから、一時あすこ(下川岸しもかわぎし)は栄えたんだね。”

古老は語る Part2

“昔、料理屋なんてやってね。この家もミヤノヤ(屋号)っていう料理屋だった。その先に土手の方に寄った所に、スガノヤ(屋号)っていう料理屋があったの。

お客さんは、それはね、ここ3軒のお茶屋、10軒の所で、3軒がお茶屋でしょ。んだから、もう、水海道辺りの商人が東京へ仕入れに行くお金がこのお茶屋ではたかれた(使ってしまって)っていうほど。使わせられちゃって。泊りぶって(宿泊して)。向こうから来て、ここで、一泊する。ここから、通運丸っていう蒸気船に乗って、運河を通って、江戸川にでて、東京に入ったの。

これしかねえ(この方法だけしかない)わけだ、東京に行くのに。鉄道ができてからは、すっかり変わっちゃって、ここはもう寂しくなっちゃったのね。

90年前は、とっても賑やかだったの。毎日、朝からドンチャンドンチャンね。それこそ、三味線・太鼓の音でね。お客がもう、はあ、ね。んだから、もう、東京へ仕入れに行くお客のこと待って、もう捕まえて、えへへへ。ここでね。お金を使わせらっちゃうね。”

古老は語る Part3

下川岸しもかわぎしがにぎやかだった頃。後藤屋、それからほれ、飲み屋いっぱいあっぺよ、スガノヤ、オカノヤ、タムラヤ、タジマヤ。

そんで、俺子どもの頃はな、正月になると、トンツク、トンツク、トンツクトンツクってほれ、料理屋でな、一杯やりながら、茶屋女らとトンツクやって騒いだの聞こえるんだから。下河岸が盛んな頃だよ。ほんで、常陸からこっちの方の米、味噌、醤油、どんどんどん、あすく(あそこ)から東京へ出したの。お客さんは、運びや(運送屋)。それから、地元の好きな大将らは、あすくへ行って夜、正月になると新年会っていう訳じゃないけれど、トンツクトンツク。忘年会も新年会もあすくでトンツクトンツク。スガノヤ、ゴトウヤだの、ミヤノヤだの。タテバもあったよ。

ガラガラガラガラ。あの馬車だからな。トロッコなんてないかんね。タテバ。そういうような。馬をつないでおくところ。そんで、一杯飲んで、馬ひっかけたっけれ、また一杯飲んで。いや、これはあすこはその当時、銀座通りだから。夜通しだよ。うん、ガラガラガラガラ、砂利道だから、んだから聞こえるの。

そして、そのうち今度、運河が出来たでしょ。ほんで(だから)、あすこから運河を通って、江戸川に入って、そんで、あれ持っていったけかな。こいつはね、利根汽船航路っていうやつで、野木崎河岸通ったんだよ。

通運丸のがあって、通運丸っていうのは、ここから水海道まで行ったんだから、ずっと。ほんで、その頃は、利根川も鬼怒川も深くて、ずっと水海道まで行った。水海道じゃなくて、宗道河岸なんて、その先まで行っていたんだ。そんで、昔はこっち側に船が着いたんだ。今は、砂ばかりでてだめだけど。こっち側深くて。

関東鉄道できてからは、まずくなったんだよな。関東鉄道できてからは、みんな、荷物だの向こう行っちゃうから。”

これが通運丸つううんまるだ!

“通運丸の構造はその中央が機関部で大きな蒸気エンジンが据えつけてあったが、船は発動機船とちがってあまり振動もなく、乗り心地はきわめてよかった。

通運丸
蒸気船「第一号 通運丸」の模型

客室は上等と並等にわかれ、上等はへさき(船の前)の方にあり、並等はとも(船の後)の方にあった。並等と機関部の間に狭い部屋があったが、そこには会計さんという船長に次ぐ地位の船員がいて、船内の事務や船客に対するサービスを仕事としていた。

またその部屋には駄菓子屋やラムネなどをならべ、客の求めによっては弁当も調製した。弁当といっても汽車弁のような折詰ではなく、むかし一膳めし屋でよく使った木製の仕切りのある箱に飯を盛り、おかずは主に佃煮類を添えたものであった。”

通運丸つううんまるのスペック

型番長(尺)重(トン)馬力時速(里)
第16619133.0
第26920133.0
第37419183.0
第46420133.0
第55713163.0
第66618163.0
第77418163.0
第87628133.5
第97827193.5
第105013133.0
第11656134.0
第126221223.5
第146315163.0
第1643743.0
第176312163.0
第186314163.0
第1947663.0
第2046764.8
第214665.54.0
第2251565.0
第235196.26.0
第245196.26.0
第256722155.0
第266824156.0

通運丸つううんまるに乗った、高梨少年

“船室にはうす暗いカンテラ(灯火具の一種)がともされ、乗客は着たままのごろ寝である。混み合ったときは他の客の頭や足が自分のからだに触れることもあった。

東京へ帰るときは正午に水海道を出航した汽船が一時ごろ大木へ着くのでそこから乗り込むとその日の夕方には東京に着く。

上りは下りの約半分の時間しかかからない。下りは、江戸川も鬼怒川も流れにさかのぼるので船足が遅く、上りは、いずれも流れに従うので船足が早いのである。

下りは夜間であるが、上りは昼の間であるから、その間のんびりした船旅が楽しめた。”

通運丸つううんまるに乗った、新島少年

“鬼怒川で水浴びをしていると、大木出身の船員に汽船へ引き上げられ、そのまま水海道まで乗せてもらい、川徳かわとこでうどんをご馳走になり、また、大木まで上りの船で送ってもらった。”

守谷イチの美女? お夏

♪とらやお夏は いかりつなか 上り下りの船とめる♪

“野木崎河岸の『とらや』にはお夏という別嬪の娘がいた。上り下りの船頭たちは『とら屋の娘、お夏』と一夜のかんをつくすため、船足の予定を変更してまで野木崎河岸に停泊し、大いに浩然きぜんの気を養ったという。それで唄のような『とらやお夏は いかりつなか 上り下りの船とめる』という歌詞が生まれたのである。

こうして歌になったほどの美人『とら屋の娘、お夏』は、その後に利根川向う東深井村へ嫁に行き、明治41年6月、61歳で世を去ったという。”

もりやから東京まで何分?

通運丸
約6時間

東京からもりやまで何分?

通運丸
約12時間

通運丸の略年表

明治10年『通運丸』就航
明治23年『利根運河』開通
明治33年東京—水海道を新設
大正2年常総鉄道『守谷駅』開駅

編集後記

交通の歴史はあらゆる歴史でした。その時代にどんな人がいて、何を考え、何を為そうとしたのか? その結果が道でした。

文章のほとんどは、先人からの引用です。それを1つのピースと捉え、繋ぎ合わせることで1枚の布にしてみました。

先人の引用はすべて直接引用を心掛けましたが、読みやすくする為に、ごく一部、修正しています。引用元を別ページに纏めました。そちらを御確認頂ければ幸いです。

守谷の歴史を着る?