明治編
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- 守谷に通運丸きたる
- 昔、1900(明治33)年に、ある蒸気船が東京から水海道まで行く新しい道ができました。その途中にある「守谷」はとてもにぎやかになりました。
航路:東京(両国)〜水海道
- 参考元:「広報もりや123号」|昭和50年1月20日発行|守谷町
- 図参考元:「図説・川の上の近代」|平成19年発行|川蒸気合同展実行委員会編・刊
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- これが通運丸だ!
- 蒸気船「通運丸(つううんまる)」は真ん中にエンジンがあって、大きな蒸気エンジンがついていました。この船はゆれが少なくて、乗っていてとても快適でした。
蒸気船「第一号 通運丸」の模型
- 参考元:「広報もりや123号」|昭和50年1月20日発行|守谷町
- 図版の版元:物流博物館
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- 通運丸には2つの客室
- この船には、いい部屋と普通の部屋がありました。いい部屋は船の前の方に、普通の部屋は船の後ろの方にありました。普通の部屋と船の機械を動かす部分の間には、狭い部屋がありました。その狭い部屋には、船長の次に大切な仕事をしている「会計さん」という人がいて、船の中の事務仕事や、乗っている人たちを助ける仕事をしていました。その部屋には、お菓子やラムネを売っていて、お客さんが頼めばお弁当も作ってくれました。お弁当は、電車で売っているようなお弁当箱じゃなくて、昔の食堂でよく見かける木の箱に、ご飯とおかず(主につくだ煮)を入れたものでした。
- 参考元:「広報もりや123号」|昭和50年1月20日発行|守谷町
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船室にはうす暗いカンテラ(灯火具の一種)がともされ、乗客は着たままのごろ寝である。混み合ったときは他の客の頭や足が自分のからだに触れることもあった。東京へ帰るときは正午に水海道を出航した汽船が一時ごろ大木へ着くのでそこから乗り込むとその日の夕方には東京に着く。上りは下りの約半分の時間しかかからない。下りは、江戸川も鬼怒川も流れにさかのぼるので船足が遅く、上りは、いずれも流れに従うので船足が早いのである。下りは夜間であるが、上りは昼の間であるから、その間のんびりした船旅が楽しめた。
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鬼怒川で水浴びをしていると、大木出身の船員に汽船へ引き上げられ、そのまま水海道まで乗せてもらい、川徳でうどんをご馳走になり、また、大木まで上りの船で送ってもらった。
- 参考元:「広報もりや309号」|平成2年3月10日発行|守谷町
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- 野木崎村が大賑わい?
- 守谷市は昔、守谷町や大井沢村、大野村、高野村、野木崎村に分かれていました。その中でも、野木崎村という場所は特ににぎやかでした。ここは川が2つ合わさる所で、大きな船や蒸気船も来ました。人々は荷物を運ぶ馬車や人力車で忙しく行き来していました。また、お米やしょう油、薪などを船に積んで運びました。そして、船の人たちや旅行者のために、茶屋や宿もあり、みんなで賑わっていたんです。
かつての野木崎の下川岸(しもかわぎし) - 参考元:「守谷わがふるさと」|平成2年11月1日発行|守谷町|P16,P17
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- 野木崎の下川岸(しもかわぎし)のいま
平成2年7月25日 令和5年7月25日 - 参考元:「守谷わがふるさと」|平成2年11月1日発行|守谷町|P16,P17
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交通機関では守谷なんか、野木崎が一番良いでしょ。水海道からあれが一番開けでんだから。ここらで(この辺で)道路に砂利入ったの一番早いんだから。そういうふうにオラ聞いでるよ。その当時の交通機関というのは馬車だから。そんで江戸川上って東京へ行った訳だから、一時あすこ(下川岸-しもかわぎし)は栄えたんだね。
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昔、料理屋なんてやってね。この家もミヤノヤ(屋号)っていう料理屋だった。その先に土手の方に寄った所に、スガノヤ(屋号)っていう料理屋があったの。お客さんは、それはね、ここ3軒のお茶屋、10軒の所で、3軒がお茶屋でしょ。んだから、もう、水海道辺りの商人が東京へ仕入れに行くお金がこのお茶屋ではたかれた(使ってしまって)っていうほど。使わせられちゃって。泊りぶって(宿泊して)。向こうから来て、ここで、一泊する。ここから、通運丸っていう蒸気船に乗って、運河を通って、江戸川にでて、東京に入ったの。これしかねえ(この方法だけしかない)わけだ、東京に行くのに。鉄道ができてからは、すっかり変わっちゃって、ここはもう寂しくなっちゃったのね。90年前は、とっても賑やかだったの。毎日、朝からドンチャンドンチャンね。それこそ、三味線・太鼓の音でね。お客がもう、はあ、ね。んだから、もう、東京へ仕入れに行くお客のこと待って、もう捕まえて、えへへへ。ここでね。お金を使わせらっちゃうね。
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下川岸しもかわぎしがにぎやかだった頃。後藤屋、それからほれ、飲み屋いっぱいあっぺよ、スガノヤ、オカノヤ、タムラヤ、タジマヤ。そんで、俺子どもの頃はな、正月になると、トンツク、トンツク、トンツクトンツクってほれ、料理屋でな、一杯やりながら、茶屋女らとトンツクやって騒いだの聞こえるんだから。下河岸が盛んな頃だよ。ほんで、常陸からこっちの方の米、味噌、醤油、どんどんどん、あすく(あそこ)から東京へ出したの。お客さんは、運びや(運送屋)。それから、地元の好きな大将らは、あすくへ行って夜、正月になると新年会っていう訳じゃないけれど、トンツクトンツク。忘年会も新年会もあすくでトンツクトンツク。スガノヤ、ゴトウヤだの、ミヤノヤだの。タテバもあったよ。ガラガラガラガラ。あの馬車だからな。トロッコなんてないかんね。タテバ。そういうような。馬をつないでおくところ。そんで、一杯飲んで、馬ひっかけたっけれ、また一杯飲んで。いや、これはあすこはその当時、銀座通りだから。夜通しだよ。うん、ガラガラガラガラ、砂利道だから、んだから聞こえるの。そして、そのうち今度、運河が出来たでしょ。ほんで(だから)、あすこから運河を通って、江戸川に入って、そんで、あれ持っていったけかな。こいつはね、利根汽船航路っていうやつで、野木崎河岸通ったんだよ。通運丸のがあって、通運丸っていうのは、ここから水海道まで行ったんだから、ずっと。ほんで、その頃は、利根川も鬼怒川も深くて、ずっと水海道まで行った。水海道じゃなくて、宗道河岸なんて、その先まで行っていたんだ。そんで、昔はこっち側に船が着いたんだ。今は、砂ばかりでてだめだけど。こっち側深くて。関東鉄道できてからは、まずくなったんだよな。関東鉄道できてからは、みんな、荷物だの向こう行っちゃうから。
- 参考元:「古老に聞いた守谷の昔の話」|平成17年3月1日発行|守谷市教育委員会生涯学習課|P63,P71,P161
- 参考元:「広報もりや170号」|昭和53年10月10日|守谷町
結論
- 守谷から東京まで何分?
- 上り:約6時間
- 下り:約12時間